風惑リアリティ 閑話二 遅かれ早かれ至る現実
「っは、っ」
休日の早朝、軽いジョギングをしようと思い立ち河原まで走ってきたその帰り道。
太陽が顔をのぞかせ明るくなった空を見上げて、この一年を軽く振り返っていた。
(……早いもんだな)
1年前俺はここにきて、ツナに会って。リボーン、獄寺、山本、それに雲雀とも知りあって、あれよあれよと言う間にここまで来てしまった。
その日常は決して楽だったり、穏やかなものばかりではなかったけれど。
(なんだかんだで、一年間だ)
遅かれ早かれ至る現実
「あれ、杉原さん?」
「おはよー、君」
たっ、た、と徐々に歩幅を狭めゆるやかに歩きへと移行しながら、マンションの入口に立っていた杉原さんに近づく。
どうやら寝起きではないらしく、ぱっちりとしたスーツを着込んで化粧も決めていた。
「今から出かけるんですか?」
「ううん、人と待ち合わせをしててね。今帰って来たところ」
その言葉に首を傾げた。今帰ってきたところと言っても、この通りを走ってきた俺がマンションに入るところを見ていない。
もしかしたらここで何か考え事をしていたのか、と思い至り邪魔にならないようにしようと足早にその前を通り過ぎようとしたのだけれど。
「君、走って来たの?」
「え?ええ、まあ」
しかし逆に杉原さんから声を掛けられて、足を止めた。振り返れば、いつもの笑みを浮かべた杉原さんが頬に人差し指を当て、小首を傾げていた。
「喉渇いてない?お茶淹れてあげるから、部屋おいでよ」
こぽこぽと、お湯をポットに注ぐ音が聞こえる。暖房が入れられ少しづつ温度の上がる部屋に、ウェアの前を開けた。が、すぐ閉めた。誘われるままに来てしまったが、杉原さんの部屋だ。
「君さあ、走るの好きだよね」
「はい、好きですよ」
ポットと2つのコップを持ってこちらを向いた杉原さんの言葉に、即答する。久々のジョギングだったが、気持ちがいいのは変わりない。
本当は、先週行った並盛中央公園の桜がライトアップされて雪のように見えて綺麗だと聞いて昨夜走って行こうと思っていたのだが、バイトから帰ってきたら流石にそこまで気力がなかった。
それで夜走るのは次の機会にと思い、今日の朝は河原を走って来たのだ。
「それなのにクラブとか入らないんだ」
「そりゃ周りは中学生ですから」
急須を揺らす杉原さんの手を見ながら、笑って言う。体育祭は大人げないと思いながら参加してしまったが、流石に通常のクラブに入る気はなかった。
しかし俺の答えに、ゆっくりと首を左右に振りながら続けて問う。
「そうじゃなくて。大学でも、入らないって言ってなかったっけ。なんで?」
「……」
たった一言に、開きかけた口を閉じた。大学で陸上をやらない理由、理由というほど大層なものでもないのだけれど―――
「あ、いいよ、無理して答えなくて」
「すみません」
押し黙った俺に慌てたように言ってくれた杉原さんに、甘えさせてもらうことにした。
「いただきます」
「どーぞ」
熱々のお茶が注がれたコップを持ち上げ、一口飲めば喉の奥まで潤いが沁み渡った。
春が近づいたとはいえ朝夕は冷えるし、空気も乾燥している。杉原さんの心遣いに感謝しつつ、尋ねてみた。
「ところで杉原さん、なにか用とかあったんですか?」
「え?特にないけど。そーだなあ」
今から用を作るつもりなのか目の前で突然腕を組んで悩み始めた杉原さんに苦笑する。もちろんわざとだろうけれど、相変わらず面白い人だ。
「……君、いきいきしてるね」
「俺が、ですか?」
腕を組んだ姿勢のまま、目をやわらかく笑ませて、告げられる。
「うん。ここに来たときより、ずっと」
「ここに来た時・・・ですか」
先ほども走りながら思い返していたが、来てからいろいろなことがありすぎたようにも思う。
「結構早く馴染んでたかと思ってたけどねー」
「そんなことないですって」
実際、俺はそれほどスムーズに馴染めた訳じゃない。
流されやすくて順応性が高い、とはいっても来て一週間ほどは全く実感が湧かず、ふわふわと他人事のように思っていた。
けれど少ししたら今自分がいるところはとても遠いところで、今まで自分がいたところではないのだと、氷が解けるような感覚で理解し始めた。
それからは軽いパニックを起こして、部屋の電話で実家の番号にかけてみたり(『その番号は現在使われておりません』というアナウンスに目の前が真っ暗になった)、コンビニで購入した全国地図で実家や大学の住所を調べてみたり(索引を覗いても知っている地名は見つからなかった)した。
不思議なもので、どん底に落ちた精神状態でも自分が生きる術を探そうとするらしくバイトを見つけたのはこの時期だった。
少しづつ、杉原さんの『いつかは帰ってこれる』言葉だけを支えに立ち直って来てはいたけれど、本当の意味で吹っ切れたのはあのときだと思う。
(山本の、転落事件のときだな)
それまでのことが馬鹿みたいに頭の中の靄が晴れた。自分は何をしてたんだと言いたくなるほど、すっきりした。
不謹慎ではあるが、あの日のことがなかったらいつまでたってもどこか引きずったままだったように思う。でもそれまでの間なんとか過ごせたのは、きっと。
「俺がこうしてられるのは、杉原さんのおかげなんですよ」
「ええ?」
笑って告げた言葉に、杉原さんが目を丸くした。
「俺の置かれている状況をわかってくれて、俺がいたところを知ってくれてる杉原さんがいなかったら、頭がどうにかなってたかもしれないですし」
「買いかぶりすぎだって」
少し怒っているような顔をして口をとがらせる彼女のことも、最初は苦手だったはずなのだ。無条件にこちらに甘く、よく掴めない性格も。
けれど今となってはそれがありがたくて仕方無い。言ったら否定されるだろうけれど、杉原さんの存在はかなり救いだった。
「でも悪い気はしないなー、君にそんなこといわれちゃうと」
「そうですか?」
表情を笑みに戻してテーブルの上にあるメモ帳を手に取ると、杉原さんはその中の一枚をちぎり何かを書きはじめた。
「なにかあったら頼ってね。携帯ならすぐ出られるから」
「……むしろこっちの言葉が本音ですか」
はい、と手渡されたメモにはおそらく杉原さんのものと思われる携帯番号と『ご飯のお誘いいつでもお待ちしてまーす』の文字。
「あはは、バレたかー」
笑いながらそれを受け取り、どっちも了解です、と答えた。
「それじゃ俺そろそろ失礼しますね」
女性一人の部屋にあまり長居するのは気まずい。椅子から立ち上がると、杉原さんが笑みを引っ込めて視線を落とした。
「……ごめんね」
「え?」
「ううん、なんでもない」
ぽつ、と小さく杉原さんが謝ったように聞こえたのだが、気のせいだったのだろうか。杉原さんが俺に食事関連でお願いをすることなんて珍しくないのだけれど。
手を振る杉原さんに頭を下げて、俺は自分の部屋に戻った。
「しっかしそれにしても携帯番号か……」
杉原さんは知らないようだが、俺は携帯を持っていない。そうなると自然、電話を掛けられるのは自宅からになるわけで。
(直接訪ねて行った方が速そうだな)
折りたたんでポケットに入れていたメモを引っ張り出し、広げてみる。『ご飯の御誘いいつでもお待ちしてまーす』の文字に小さく笑って、ふと引っかかるものがあった。
「……?この字……」
どこかで見た様な気がするが、マンションの関連書類はすべてパソコン打ちで、杉原さんの字を見るのは初めてのはずだった。頭をひねるが、思い出せない。
(あれ……?)